400字の生活

とある大学生の日記

むずかしいなって話

  反省している。君が話したくない内容にまで口を挟むことや、優しく出来ないとこ。あなたのために全てを捧げたいと思っても、ちょっとした気遣いも出来ない。車の運転も出来ないし、面白い話もできない、お会計は割り勘で。逆に、人生相談みたいなことをしちゃったり。

 私って子供っぽいでしょ。あなたへの配慮や想像力がいつも空回りしてしまう。あなたが話す丁寧な一言二言を、失礼な言葉で返してしまう。話が下手なのに、言葉を選ばないからこうなる。「質問力」って本を読んだんだ。質問してあなたのモヤモヤを整理させてあげようなんて、クソみたいなこと考えてる。どうしようもない。

 別れるのかな。彼女の横顔を観るたび、心が浮ついてあせってしまう。それでも良いのかもしれない。私はあなたが願うような仕事には就けなかったし、あなたと未来を進められるだけの余裕が今はない。

 感謝しているんだ。好きだと素直に伝えられることやあなたのために自分を犠牲にしたいって思えることが嬉しい。なにより、こんな自分が人を愛せることが分ったし、受け入れてくれた事実。あなたの顔を思い出すと、頑張ろうって思えるのさ。それだけ。

嘘とか嘘っぽいのとか、真実とか

 

 この前、佐村河内守氏のドキュメンタリー「FAKE」を観た。

 佐村河内氏は「嘘つき」という印象がある。黒髪ロンゲ、サングラスで耳に障害がある。いかにもキャラの盛り合わせみたいな怪しい人だからメディアは飛びついた。嘘をついて、金と名声を得た人。そんな烙印を押されてしまっていた。

 

 映像での佐村河内氏は眼鏡をかけて、ハーフパンツを穿いていた。普通の人だと思った。でも、カーテンや扉が閉じきった部屋だとか「変」な箇所がいくつも見える。妻との関係性もよく分らない。愛してるなんて言っているのにどこか信頼し合っていない。ドライすぎる(最後のところとか)。これもまた、佐村河内の嘘なのか。

 

 何が嘘で何が嘘じゃないのか訳が分らなくなった。これが森達也監督からの問いなのだろう。メディアは視聴者のために演出をする。分りやすくするために曖昧さを四捨五入するのだ。「ただの嘘つきクソ野朗」。これで、彼の怪しさは簡単に説明できる。

 

 人と深く付き合いだすと、いろいろな面を知る。ネコが好きだったり、ださい帽子被ってたり、ハンバーグ食べたり。いろんな顔があって、人間なんだろう。どの顔を見るかによって受ける印象はずいぶん変わる。豆乳片手に好きだと笑う佐村河内氏。笑った彼を初めて見て、少しは信じてみようかと思った。(妻が「いただきまんもす」って言ってハンバーグ食べだしたの!あれは絶対、嘘じゃないと思ったネ!)

 

長くなっちった

 

 

歌と世界

 水道橋博士、まじでナイスガッツ

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 能年ちゃん。。。本当に海が似合う女優。海の底で息しているような、絶対に私とは重なることのない線で生きている人。星新一の「月の光」の女の子という生物とか、人魚姫とか。あ、海月姫か。ははは。

 

 捕まえてきた蟷螂を虫かごにつめ、午後になって思い出して覗くと死んでいた。野生の不安定な命。命の危うさに惹かれる。人間らしく生きようとすれば、外の世界とぶつかる。そして修正していかなければならない。なんと嫌な社会。

 

 GOMESSくん。静岡出身のラッパー。経験した怒りと悲しみを歌う。人から馬鹿にされる、無視される。世界のすべてが懐疑的に思え、自分をも否定したい。語り部みたいだ。自分の記憶と心を削り、歌う。歌わされている。怒ることで、世界が繋がった。

 

 ひとつだけ。黄金伝説で能年ちゃんが清志朗の真似して熱唱してた。

 

離れているときでも 

ぼくのこと 忘れないでいてほしいの

ねえ おねがい

悲しい気分の時も

ぼくのこと すぐに呼び出してほしいの

ねえ おねがい

 

 能年ちゃんも歌わされているんだ。不器用に世界と繋がろうとして。

 

すこし愛して、ながく愛して。

 

 すこし愛して、ながく愛して。

大原麗子さんが出演したサントリーレッドのCMのキャッチコピー。1977年、博報堂の藤井達郎さんによって書かれた秀逸な一文である。(Wikipedia情報)

 

一途に愛しても振り向いてくれない、それどころか粗末に扱う恋人に向けた小さな訴え。これが、こんだけ愛してるのに!愛してよ!となると趣きがない。全然愛想を振り向いてくれない相手だが、「それでもいいから、一緒にいてよ」という健気な思い。少し依存している感は否めない。

 

彼女から連絡がない。既読スルー。今月は私の誕生日だったが、一度しか会えず、しかも誕生日プレゼントはない。めんどくさくなって、別れを切り出す人だから私は正気でいられない。

 

 すこし愛して、ながく愛して。

正直別れの気配を感じながらも、それだけは避けたい。彼女が好きで仕方なく依存しているからに他ならない訳だが。この先に果たして幸福があるのかは分らない。が、愛したいのだ。だからちょっとでいい、LINEを返事するくらいの愛で私の側にしばらくいてくれないかな(趣きゼロ)

 

社会から役に立ちたい、チャレンジ精神旺盛な人材は私だ!しかし、私ではなかったみたい。

 

 お祈りメールを見て、辛くって気づいたらCS。誰も当てにできない。「こんなに頑張ったんだ。全然報われなかったよ」。そうした不毛な報告だった。

 

 家では、父母が落ちた企業についていろいろ質問してくる。選考が進んでいると思っているみたい。バイトではここ一か月全然入れなくって、嫌われだした。ゼミでは内定先が一つも出ていないのが私だけになった。彼女は全然会ってくれないし、時間が合わない。単位もいくつか、さいなら。

 

 こんな苦しいなら、やらなければよかった?そんなことはない。金を無駄にし、精神を削り、バイトと遊びを犠牲にしながら、自分が磨かれているのがわかる。一生懸命バリバリ皮を剥いで、羽を伸ばしている。自由が欲しい。

 

 生きる自由。それは、「人から生きていい」と思われるような、そんな権利。自分が社会に役に立つんだって証明できるもの。それはスーツの胸についた小っちゃいピンバッジでもいいし、四角いカードでもいい。ただ今日を確かに生きられるだけの安心がほしい。

 

 

今さらながらも

 

 就活を通して学んだのは、皆よく考えてこの世を生きているということ。私は表面ばかりに目がいきがちで大切な中身を全く意識していなかった。

 

 誰もがこの世界を全うしようと企み悩み、時に苦しみ、遊びふざけながらも生きている。テレビばかり観て育った私にはその遊びや言葉や見た目だけで、人を判断してしまっていた(もちろん、テレビの人たちも努力しているが、それは見えない)。

 

 中学の時に感じた、「大人は何にも考えてねえ」という感情はどこかへ吹き飛んだ。大人は頑張っている。働いて金を稼ぎ、気を使って、叱られて、謝って、不安になって、考えて、貯金して、家族を養って生きている。社会人ってものすごく大変じゃないか。

 

 二十代は一生懸命働こうと思う。岡村ちゃんも「ストイックはセクシー」って言ってた。スマップは売れない時期を過ごし苦労したから今がすごくカッコイイ。ゼミの先生は男は三十からだと言う。なんだ、働くってカッコイイじゃん。

 

 

 相手のことが好きな分だけ、傷つく。

 

 私が私である以上、性格が大きく変わる訳でもなく。

 

 彼女は私よりも先に大人になって、

 

 会話の内容も少しずつズレてくるだろう。

 

 彼女にとって私は宿り木。

 

 次の良い彼を待っている間を埋めるだけの相手に

 

 過ぎないのだ。どうだ苦しいだろう。

 

 それでもいいと思えてしまう。今のところは。